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カスタマーレビュー
おすすめ度:
親鸞の〈信〉を知り得る名著
(2008-06-04)
現代に「悪人正機説」がなぜ流行るのだろう、
という問いと、そもそも「悪人正機」とは何か、
という問いを持って、本書に向かいました。
親鸞が生き、活動した時代の貧困と混沌の在り様、
悪行を選ぶか死を選ぶか、という程
ひっ迫した状況にあった多くの民が、
愚僧と自称する親鸞の信心に出会うことによって救われた事実が
本書にはつぶさに記されていて、
私は得心が出来、感銘を覚えました。
著者が試行した、親鸞における〈信〉の解体は、
ある意味では大いに成功を収められた、と言えるでしょう。
しかし、結論として、親鸞を、信心よりも思想の人とみなされたところには、多少の違和感を覚えました。
最後まで〈信〉に迫る親鸞の気迫を、感じたかった、というのは、
私の我儘でしょうか?
とても原理的な考察
(2008-02-09)
法然と親鸞の違いは、たぶん<知>(「御計」)を
どう処理するかの一点にかかっていた。
法然には盛遂できなかったが、親鸞には成遂できた思想が
<知>の放棄の仕方において、たしかにあったのである。
悪人こそが救われるべき存在であるという「悪人正機」。
「ただ念仏をとなえるだけでいい」。
吉本は、親鸞とその師である法然との
微妙な違い(知の放棄の仕方)を考察することを通して、
「何かしなければいけない」と思ってしまう
人間の普遍的な心性を浮き彫りにさせる。
善悪や正義の根拠になっている「地盤」自体に目を向けさせる
親鸞の思想は700年以上前のものでも古びていない。
非思想家・非生活者を生きる
(2007-12-18)
前半はわかりやすかったが、後半は難しかった。
きっと、吉本さんは「非僧・非俗」に生きる親鸞に仮託して、自分の思想家としてのあるべき姿を述べていると感じた。
それはきっと「非思想家・非生活者」ではないだろうか、と推測しているのだが、どうだろう。
大学教授といった思想家風にもならず、阪神タイガースを愛しながらも俗に落ちずに猫を愛する吉本さんの生活は、まさにそんな感じかと思ったのだが。
吉本隆明の思想のエッセンス
(2007-09-23)
本書は、著者の考え方の根底が割合とストレートに出ている作品だったと記憶している。真理とは逆説的な形で常識的なことを語ることでしかないこと、これが本書のバックボーンにあるように記憶している。意外というか、やっぱりというか、小林秀雄や、かつて著者がやや批判的に述べていた今西錦司などにも、どこか似ている。「日本の思想」とは案外こういう辺りなのか。キリスト教の伝統の中で育まれてきた西欧思想と、同じ次元では考えられないものがある。西欧の哲学が、「水平線」の上の部分を論理で積み上げることに主眼があったとして、日本の思想は、「水平線」の下の部分に主眼があったのか。生きていくことへの自身の問いがそれであって、人に知らしめたり説得することに主眼は無い。分かって貰えないなら仕方が無いし、本人が会得できたかどうか、そこが問題で、人が評価することでもない。そんなことが、本書のバックボーンだし、日本の思想の姿とも思えた。
親鸞は「思想」したか?
(2004-02-22)
吉本氏は書く。
「思想がたまたま仏教の形をとらざるを得ない時代だったから仏教的であったに過ぎない」しかし、これを逆説的に説くとこうなる。「親鸞は果たして仏教徒である前に思想家であったのか?」
おすすめ度:
親鸞の〈信〉を知り得る名著
現代に「悪人正機説」がなぜ流行るのだろう、
という問いと、そもそも「悪人正機」とは何か、
という問いを持って、本書に向かいました。
親鸞が生き、活動した時代の貧困と混沌の在り様、
悪行を選ぶか死を選ぶか、という程
ひっ迫した状況にあった多くの民が、
愚僧と自称する親鸞の信心に出会うことによって救われた事実が
本書にはつぶさに記されていて、
私は得心が出来、感銘を覚えました。
著者が試行した、親鸞における〈信〉の解体は、
ある意味では大いに成功を収められた、と言えるでしょう。
しかし、結論として、親鸞を、信心よりも思想の人とみなされたところには、多少の違和感を覚えました。
最後まで〈信〉に迫る親鸞の気迫を、感じたかった、というのは、
私の我儘でしょうか?
とても原理的な考察
法然と親鸞の違いは、たぶん<知>(「御計」)を
どう処理するかの一点にかかっていた。
法然には盛遂できなかったが、親鸞には成遂できた思想が
<知>の放棄の仕方において、たしかにあったのである。
悪人こそが救われるべき存在であるという「悪人正機」。
「ただ念仏をとなえるだけでいい」。
吉本は、親鸞とその師である法然との
微妙な違い(知の放棄の仕方)を考察することを通して、
「何かしなければいけない」と思ってしまう
人間の普遍的な心性を浮き彫りにさせる。
善悪や正義の根拠になっている「地盤」自体に目を向けさせる
親鸞の思想は700年以上前のものでも古びていない。
非思想家・非生活者を生きる
前半はわかりやすかったが、後半は難しかった。
きっと、吉本さんは「非僧・非俗」に生きる親鸞に仮託して、自分の思想家としてのあるべき姿を述べていると感じた。
それはきっと「非思想家・非生活者」ではないだろうか、と推測しているのだが、どうだろう。
大学教授といった思想家風にもならず、阪神タイガースを愛しながらも俗に落ちずに猫を愛する吉本さんの生活は、まさにそんな感じかと思ったのだが。
吉本隆明の思想のエッセンス
本書は、著者の考え方の根底が割合とストレートに出ている作品だったと記憶している。真理とは逆説的な形で常識的なことを語ることでしかないこと、これが本書のバックボーンにあるように記憶している。意外というか、やっぱりというか、小林秀雄や、かつて著者がやや批判的に述べていた今西錦司などにも、どこか似ている。「日本の思想」とは案外こういう辺りなのか。キリスト教の伝統の中で育まれてきた西欧思想と、同じ次元では考えられないものがある。西欧の哲学が、「水平線」の上の部分を論理で積み上げることに主眼があったとして、日本の思想は、「水平線」の下の部分に主眼があったのか。生きていくことへの自身の問いがそれであって、人に知らしめたり説得することに主眼は無い。分かって貰えないなら仕方が無いし、本人が会得できたかどうか、そこが問題で、人が評価することでもない。そんなことが、本書のバックボーンだし、日本の思想の姿とも思えた。
親鸞は「思想」したか?
吉本氏は書く。
「思想がたまたま仏教の形をとらざるを得ない時代だったから仏教的であったに過ぎない」しかし、これを逆説的に説くとこうなる。「親鸞は果たして仏教徒である前に思想家であったのか?」
この本の初版は昭和51年だがこの時点で後にオウム事件で麻原を擁護する根拠となった視点がこの時点でいくつかすでに見受けられるのに驚く。
特に吉本の親鸞論における最大の問題は親鸞における「機の信心」と「自然法爾」つまり信じるには自分が悪人である自覚は要らない。ということと全ての知恵を捨て、信でさえも捨てただこのままでよい。と言い切った点である。
だが、だが吉本のいう自然とは全ての知恵を捨てていない。単なる自己満足と根拠の無い自己肯定の世界の中に自分を置いているだけである。
>>>詳しくは最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)
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